豊島屋本店について
歴史
豊島屋(昭和より豊島屋本店)は東京において最古の酒舗で、慶長元年(1596)に創業者豊島屋十右衛門が、江戸の中心部神田鎌倉河岸(現在の千代田区内神田)で酒屋兼居酒屋を始めたのが起源です。
十右衛門は白酒作りを始め、その評判は江戸中に広まりました。白酒は甘いお米のリキュールで、当時の女性に大変御好評をいただきました。
江戸時代、豊島屋は関西から運ばれた「下り酒」を販売しておりました。 豊島屋はお酒を安く販売し、またつまみとして味噌を豆腐に塗った後に焼いて供する「豆腐田楽」を安く提供していました。田楽はお酒のつまみとして人気を博し、豊島屋は大変な賑わいだったと言われております。また豊島屋は、空いた酒樽を味噌屋等に販売して利益を出しておりました。これにより、豊島屋はお酒を安く販売することが出来ました。(豊島屋は日本における居酒屋のルーツとも言われております。)事業が拡大すると共に、豊島屋は幕府御用達となりました。
第12代当主吉村政次郎の時、明治時代中頃に豊島屋は清酒の醸造業を自ら手掛けるようになりました。 当初、蔵は兵庫県の灘地方にありましたが、昭和初期に政次郎は蔵を東京西部の東村山市に移設致しました。
大正12年(1923年)の関東大震災において豊島屋は店が倒壊しましたが、鎌倉河岸付近の美土代町にて再建を果たしました。しかし、豊島屋はまたしても不運に見舞われ、昭和20年(1945年)の東京大空襲で店は全焼致しました。その後、豊島屋本店は同じ場所で再開を試みましたが、連合国軍に接収されたため、再開は叶いませんでした。そこで豊島屋本店は再度場所を移し、現在の地である神田猿楽町にて再開致しました。
豊島屋本店は、酒蔵を別会社として分社化し、豊島屋酒造株式会社(東京都東村山市)を設立致しました。また接収解除後、豊島屋本店は元の美土代町の地にビルを建築し、有限会社豊島屋不動産(現在の神田豊島屋)を設立致しました。
酒蔵では、清酒、白酒、味醂を作っております。私共の清酒「金婚」は全国新酒鑑評会にて幾多の金賞を受賞しており、有名な明治神宮様、神田明神様に唯一の御神酒としてお納めさせていただいております。
現在、豊島屋本店は、お蕎麦のつゆに欠かせない醤油と味醂等を扱う商社としても事業を進めております。私共は、質の高い商品をお客様にお届けすることで、日本における食の発展に貢献していきたいと考えております。
これまで豊島屋は、創業以来お酒を核として事業を進めて参りましたが、その間、口伝の家訓である「お客様第一、信用第一」を常に守って参りました。豊島屋の行動指針は「不易流行」で、これまで守るべきものは頑なに守り、変えるべきものは大胆に変えて参りました。
創業当時のイメージ
創業当時の慶長年間(1596~1615)には、徳川家康の天下普請により江戸城の大拡張がなされました。鎌倉に集積され江戸に運ばれた石材、木材が陸揚げされる場所が鎌倉河岸で、そこには多くの人々が集まりました。
鎌倉河岸の豊島屋では、お酒とおつまみで人気の豆腐田楽を安く提供し、大変な賑わいだったと言われています。また、十右衛門が作った白酒は、江戸中の御評判をいただき、お雛祭の前は白酒のみを販売致しました。
清酒「金婚」の醸造は明治時代中期に始め、現在、東村山にある豊島屋酒造では、良質な品々を醸しております。
現在の状況
現在、弊社の経営理念として、「豊島屋本店は、上質な酒と食品を通じてお客様に価値を提供し、食文化の発展に貢献します。」を掲げております。業務用では、主に日本蕎麦屋様、居酒屋様を主なお得意様としています。また、小売店舗やインターネットを通じて、多くの一般のお客様にも御贔屓いただいております。
昭和初期に設立した「豊島屋酒造」(東京都東村山市)にて、清酒「金婚」、白酒、味醂を醸造しています。この「金婚」を、明治神宮様、神田明神様に唯一の御神酒としてお納めしております。
また、お酒の会「金婚会」を通じて、「江戸・東京の酒」をお楽しみいただいております。
令和2年(2020)7月、創業地近くの神田錦町にて、「江戸東京モダン」をコンセプトとする酒屋兼立ち飲み居酒屋「豊島屋酒店」を開業致しました。関東大震災で店が倒壊してより、約1世紀ぶりに飲食業を行い、創業の商いを再興するに至りました。
トレードマークと不易流行
豊島屋本店のトレードマークは「カネジュウ」で、外側の金尺を示す部分と、内側の「十」の文字から成ります。金尺は大工道具で「安定」の象徴であり、また語呂から「繁盛」に繋がると言われております。そして、「十」は初代十右衛門の名前の一部で、初代を称えています。この「カネジュウ」は、実直な商いと商売の安定・繁栄を祈って懸命に働いた初代の志を表しております。
また、行動指針の「不易流行」は、時代の変化に対応すべく、守るべきものと変わるべきもののバランスを取ることの重要性を示しております。この指針により、未来に繋げて参る所存です。
豊島屋酒店の開業
大正12年(1923年)の関東大震災で店が倒壊してより、豊島屋は酒屋としての商売は続けましたが、飲食業は行っておりませんでした。その後の令和2年(2020年)、創業地に近い神田錦町に建てられた大型オフィスビル「神田スクエア」 1階に、創業の商いである酒屋兼立ち飲み居酒屋「豊島屋酒店」を開業し、約1世紀ぶりに創業の商いを再興致しました。
「豊島屋酒店」は「江戸東京モダン」をコンセプトとしており、江戸時代に流行ったつまみの豆腐田楽を現代に再現する等、江戸時代の居酒屋の現代風アレンジ、また日本酒とチーズのペアリング等、現代における新たな提案を行っています。気軽な酒屋兼立ち飲み居酒屋で、お酒等の販売、美味しいお酒とお料理の御提供を行っており、多くのお客様にお立ち寄りいただいております。
ミッション(経営理念)
豊島屋本店は、
上質な酒と食品を通じてお客様に価値を提供し、
食文化の発展に貢献します。
口伝の家訓
お客様第一、信用第一
行動指針
「不易流行」
守るべきもの(不易)は頑なに守り、
変えるべきもの(流行)は大胆に変える。
豊島屋にまつわる逸話
白酒誕生秘話
ある夜、豊島屋十右衛門の夢枕に、紙雛様が立って、白酒の作り方を伝授しました。十右衛門が、その通りに作りますと美味しい白酒が出来たとされました。
十右衛門は、桃の節句の前に売り出しました。すると、その美味しさが大いに江戸中の評判になり、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われるまでになりました。
『江戸名所図会』
江戸後期の天保七年(1836)、斎藤家の人々が『江戸名所図会』を編纂致しました。これは、絵師の長谷川雪旦が20巻に亘り、江戸の名所を描いたものです。その1巻目に、豊島屋が白酒を販売する様子が描かれています。
ここでは、「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商ふ図 例年二月の末 鎌倉町豊島屋の酒店に於て雛祭の白酒を商ふ 是を求めんとして遠近の輩黎明より肆前に市をなして賑へり」と説明され、その繁盛ぶりが鮮明に描かれました。
江戸の華、豊島屋の白酒
この『江戸名所図会』には、多くの人々が白酒を買い求めに来ている様子が描かれています。櫓には医師と鳶職を待機させ、白酒を求めに殺到する人々が怪我をした場合に備えています。また、店の前に大看板を立て、白酒売出しの時は「酒醤油相休申候(酒と醤油の販売をお休み致します)」と大書きしてあります。初春(2月)の白酒の売り出し日には、1,400樽という膨大な量を売り上げたと伝えられています。「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われるほど、豊島屋の「白酒」は江戸の名物となりました。
こうした豊島屋の風景は、広重の『絵本江戸土産』、及び『狂歌江都名所図会』等に描かれました。このように豊島屋の歴史は、日本の文化史のひとコマでもあります。